戦後の国際社会復帰への仲立ち
1949年
片山哲元首相夫妻が海外渡航を許されコーのMRA世界大会出席。欧米各地を歴訪。
1950年
マッカーサー司令官によって戦後初めて海外渡航を許された73名の大型使節がMRA世界大会に出席。
その後、英独仏伊米国を歴訪。
栗山長次郎、北村徳太郎、中曽根康弘など7名の与野党国会議員。
広島県知事、広島市長、長崎県知事、長崎市長などの首長、財界人、労働組合代表など。
団長は東芝石坂泰三社長。
吉田茂首相の代理として栗山長次郎議員と北村徳太郎議員が米国上下両院で日本の戦争中の行動について謝罪。
広島の浜井信三市長による「過ちは繰り返しませぬから」の碑文決定の契機となる。
1951年
サンフランシスコで、講和条約調印前にブックマン博士が日本の代表団と、対日講和に反対する各国代表との和解活動を行い、講和条約賛成への環境づくりを行う。
吉田茂、池田勇人、星島二郎、片山哲、加藤シズエ、戸叶里子など超党派の議員が参加。
ブックマンは連日各国の関係者を食事に招き、対話の場を提供したうえ、MRAの音楽劇「ジョサム・ヴァレー(Jothum Valley)」に招待した。
米国西部の農場を舞台にした和解の劇で、条約反対国はもとより条約に反対していた日本の左派社会党議員などにも感動を与えた。
1956年
ブックマン博士来日。鳩山一郎首相と会談。
日本政府は、ブックマン博士に日本の国際社会復帰への貢献を評価して、勲二等旭日章を贈る。
広島碑文誕生の契機
碑文「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」決定の経緯と意味
1950年
浜井信三広島市長がスイスのMRA世界大会に出席。
楠瀬常猪広島県知事、山田節夫広島県選出参議院議員(後に広島市長)、杉山宗次郎長崎県知事、大橋博長崎市長も同行。
ドイツとフランスの劇的な和解の現場を見、その後ローマ法王、ドイツ・アデナウアー首相、フランス・シューマン外相他と会談。
さらに米国議会やアーリントン墓地を訪問したことがこの碑文の決定に至ったと言われる。
浜井市長は被爆地の楠から作製した十字架12個をローマ法王、英国チャーチル首相、フランスのオリオール大統領、米国トルーマン大統領、ロンドン、ベルリン、ニューヨーク市長などに贈呈したとされる。
浜井市長は碑文の意味について以下のように述べた。
「この碑の前にぬかずくすべての人びとが、その人類の一員として、過失の責任の一端をにない、犠牲者に詫びることの中に、私は、反省と謙虚と寛容と固い決意とを見いだすのであって、その考え方こそが、世界平和の確立のためにぜひ必要だと考えた。」
(浜井信三著「原爆市長」)
1970年
反対論もあった中で、この碑文存続が決定。
「私も世界連邦政府主義者であり、人類共通の願いを表した『安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから』の碑文は変えるべきでないと思っている」
(山田節夫広島市長記者会見。1950年に参議院議員としてコーのMRA世界大会に浜井市長とともに参加)
2023年
G7広島サミット前に岸田文雄総理に碑文に関する提案を行う。
提案1
碑文「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の広島市の英訳は“Let all the souls here rest in peace for we shall not repeat the evil”と「過ち」がevilと訳されているが、G7首脳には原文の意味がmistakeであることを伝える。以下がその理由である。
浜井信三市長と親しかったドイツ人Don Libby氏の本にはmistakeと訳されている。“We shall not make the same mistake Again, meaning that Japan as well as America was responsible.”また雑誌MRA Pictorial(1960年)などもmistakeと記載。
Evilは、単なる善悪という以上に悪魔、強い悪意などを意味する。しかも主語が無い日本語に対し、英訳にはWeという主語が入っているので、核保有国を含む首脳達がevilと聞くと、悪魔とみなされていると誤解しかねない。ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を「西側の悪との戦い」とも主張しており、G7がevilとレッテルを貼られる可能性も回避すべきである。
この内容は松井一実広島市長にも事前に説明した。
5月19日に松井市長がG7首脳に碑文の説明をした際、通訳者は「過ち」をmistakeと訳したことが確認された。
提案2
1950年に浜井信三市長が、現在のG7諸国を歴訪したことが碑文作成につながったストーリーをG7首脳に紹介する。
首脳達に碑文の意味を身近に感じてもらうために。
2016年のオバマ大統領の広島でのスピーチの最後の言葉も紹介した。
「広島と長崎を核戦争の始まりとして記憶するのではなく、私たち自身の道徳的な目覚めにしなければならないのです。」
アジアとの和解
1957年
日韓関係修復のため、星島二郎(自民党)、加藤シヅエ議員(社会党)、相馬雪香さん他がフィリピンのMRA会議で戦後初めて韓国国会議員と直接交流。
帰国後、両議員の進言を受け入れて、岸信介首相が国会答弁で両国間の交渉のガンとなっていた久保田発言の取り消しと財産請求権を撤回を表明。韓国李承晩政権との対話の道を開いた。
首相就任後、岸信介首相は先ずアジア太平洋諸国を歴訪。
星島二郎、加藤シズエ議員の進言もあり、歴訪国で戦争中の日本軍の行動などを謝罪してアジアとの和解を推進。
中曽根康弘議員なども同行。
その後訪米した岸首相は、アジア諸国との関係改善もあってアイゼンハワー大統領から厚遇を受ける。