17.Caux75YEARS-
Caux 75 ストーリー 1961: パトリック・コフーン
その1週間が私の人生を変えた

1961: パトリック・コフーン その1週間が私の人生を変えた

  パトリック・コフーンはオックスフォード大学での学業を終え、1961年8月7日にコーに到着しました。「それまでの3年間、友人から送られてきたMRAに関する論文はいつもゴミ箱行きでした。しかし最終学期に、正直、純粋、無私、愛というMRAの道義標準が、私が学んできた政治学、哲学、経済学に不可欠であることに気付きました。」
彼の到着した日は、MRAの創設者フランク・ブックマンがドイツのフロイデンシュタットで亡くなった日でした。ブックマンのメッセージはシンプルでした。『世界を変えたいなら、まず自分自身から変わりなさい』。「皆がブックマンについて話しをしていましたが、私はブックマンのことが嫌いでした。何故なら、彼の考えが正しければ、自分の生き方を変える必要があると分っていたからです」とパトリックは振り返ります。


  コーに行く前の調査の一環として、パトリックはリチャード・ジャクソン卿(ロンドン市警副総監兼インターポール=国際刑事警察機構=会長)に会いに行きました。ジャクソン卿は、”事実にこだわりなさい。彼らが効果的かどうか、彼らが話していることを実践しているかどうかを確認しなさい “、とパトリックにアドバイスしました。「そのため、私がコーで出会った多くの人々は、私から厳しい追及を受け、なぜ私がそんなに否定的なのかと不思議がりました。しかし、その週は私の人生を変えました。そこで出会ったイギリスの政治家が、人生を神に捧げることを進言してくれて、私はその道を選択しました。」

   パトリックはコーでの滞在を延長し、フロイデンシュタットでのブッフマンの追悼式に向かうコーの会議の参加者を乗せた特別列車に乗車しました。
「その旅で、2つの忘れられないことがありました。ひとつは私の隣に座っていた若いガーナ人が、神の導きを求めることに関して、なぜ適切な時に適切な場所にいることが重要なのかを説明してくれた。もうひとつは、軽食を出していた若い女性の笑顔を今でも鮮明に覚えています。私は彼女のことを知りませんでしたが、10年後にその女性、フランシス・キャメロンは私と結婚していました。」

 「帰国後、私はいつもひどい扱いをしていた弟に謝まりました。両親には、これまで隠してきた私の人生の一面について正直に話しました。その結果、両親が恐れていたことが確認でき、また別の不安も解消さました。そして、私の人生の方向性には驚きましたが、両親は私のことを信頼できると理解してくれました。」
 

 それ以来、パトリックはフルタイムの慈善活動に人生を捧げてきました。1980年、彼はMRAの仲間とともにアングロ・ノルディック・プロダクションズ・トラストを設立し、ロシアの反体制派、アレクサンドル・ソルジェニーツィンの1970年のノーベル文学賞受賞講演を基にした映画『One Word of Truth』を制作しました。この映画は、自由にとって不可欠な道徳的、精神的価値に焦点を当てています。17カ国語に翻訳され、特に教育現場で活用されています。
鉄のカーテンが崩壊した後の1990年、パトリックはルーマニアの医療支援組織を設立し、ザラウにある大型規模のサラジ県立病院における改革を試験的に行うなど、ルーマニア人と協力して同国の医療改革に取り組みました。このチャリティでは、268人の英国人医師が自費で病院を訪れ、医療機器を届けたりスタッフを訓練しました。ザラウのスタッフは、トレーニングのために106回も英国を訪れました。

 パトリックのチームは、当時すべての旧共産主義国で一般的であった、医療における汚職に反対する強い姿勢を示しました。
パトリックは1998年にザラウの名誉市民となり、2010年にはチャールズ皇太子から勲章を授与されました。また2019年、自身の80歳の年に 80回目のルーマニア訪問を果たしました。

マイケル・スミス
もし彼の考えが正しければ、私の生き方を変える必要がある