1946年以来、コーで開催された会議では世界のほぼ全ての問題が反映されています。1960年、キプロスは、ギリシャ系住民、トルコ系住民、イギリスの支配者との間で、時には激しい対立が数年間続いた後、独立を果たしました。新しい共和国の国旗は、大統領であるマカリオス大司教によって初めての公式海外送付先としてコーに送られ、8月16日のキプロス独立記念日にコーで掲げられました。
この贈り物は、英国とギリシャとの統合を望む大多数を占めるギリシャ系キプロス人、英国と島の分割を望む少数派のトルコ系住民、という異なる紛争当事者との間の交渉におけるMRAの静かな活動への称賛の印でした。
1954年、ギリシャ人コミュニティの宗教的・政治的指導者であったマカリオス大司教は、MRAのロンドン・センターに滞在していましたが、2年後にイギリスによって亡命させられました。
トルコの著名な編集者でありジャーナリストであったアフメット・エミン・ヤルマンは、1946年にコーに滞在し、ペンの力で共同体をひとつにまとめようとしました。1958年、ヤルマンはギリシャのメディアで広く拡散された記事の中でこう書いています。「キプロスは分断の対象ではない。キプロスは相互理解の架け橋になるべきなのだ」。1960年に大統領に選出されたマカリオスが1959年3月にロンドンで調印した和解協定には、MRAが取り持った人脈が活躍しました。
1959年、スイス人MRA職員であるマーセルとテリー・グランディが結婚し、1960年の初め、キプロスで拡大するMRAの活動を支援するため、ミニバスでコーを出発しました。ふたりはキプロスに3ヶ月間滞在する予定でしたが、マーセルが後に書いているように、「尋常ではない30年間」を過ごしました。何年もの間、彼らはギリシャ、トルコ、レバノンを数え切れないほど何度も訪れ、MRAの映画を上映し、劇やミュージカルで来訪するグループをもてなし、コーへの代表団を組成しました。
「テリーと私は、沸騰していた国に到着した」とマーセルは書いています。このような環境の中で、彼らは「夫婦としての生活、地中海のまったく新しい文化、無計画とはいえ非常に忙しいスケジュール、そしてかなり気合の入った若い人たちで構成された小さなMRAコミュニティでの生活に適応しなければならなかった」とテリーは書いています。キプロス人は毎日、オレンジ、ジャガイモ、セロリ、自宅への招待状、さらには生きたニワトリといった贈り物を持って家にやってきました。島の傷を癒したいと願う人々は双方に大勢いました。
独立後、信頼関係の構築に向けた多くの努力にもかかわらず、共同体の緊張は続きました。1974年、ギリシャとの統合を望むギリシャ右派軍事政権の支持者がマカリオス大統領に対するクーデターを起こしました。これがトルコの軍事介入を誘発し、キプロスの事実上の分裂を引き起こしました。キプロスの住民のおそらく3分の1程度が自国内で難民となりました。
以来何年にもわたり、キプロス人は障壁を取り除き、信頼を築き、腐敗と闘う努力を続けてきました。1960年12月、ファマグスタ港の若い税関職員として初めてコーを訪れたスピロス・ステプホウもその一人でした。彼は1950年代にギリシャ系のゲリラ運動EOKA(キプロス闘争民族組織)のメンバーで、イギリスをキプロスから追い出す目的で港に爆弾を仕掛けていました。妻のマルーラは彼と一緒に働いていましたが、彼のギャンブルと飲酒には絶望していました。
コーでは、スピロスは会議よりも会議場近くのバーに興味があるようでした。しかし、帰りの飛行機の中で、彼はあることを悟りました。『このまま混沌とした生活を続ければ、自分の人生だけでなく、この島も破壊してしまう』と。それから数カ月、彼はマルーラと新たな関係を築き、税関で盗んだ商品のことを上司に打ち明け、少しずつ借金を返済していきました。彼は汚職に立ち向かったことで知られるようになり、税関次長まで勤めました。
キプロスの分断は、国連などによる永続的な解決に向けた努力にもかかわらず、今日も続いています。グランディ夫妻は1989年にスイスに戻り、マーセルはIofCスイスの会長に就任しました。
2006年に亡くなる3年前、最後のキプロス訪問の後、マーセルはこう書いています。「キプロスの現状は、将来が明るいとは言い難いものです。しかし、私たちが語り合い友情を新たにするにつれ、新鮮な希望の光が見えくるようになりました。人の人生において、動機と方向性が変われば、希望は決して絶えることはありません」。
アンドリュー・スタリーブラス 「3カ月が、尋常ではない30年になりました」
Marcel Grandy, Archbishop Makarios, Rajmohan Gandhi
Marcel and Theri Grandy